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院長の生い立ち(なぜ治療家を目指したのか?)

お話しするのは初めてですね。
私個人の話をするのはお恥ずかしいですが、私の人となりを知って頂けたらと思います。
まず簡単に自己紹介します。

土井快泰(yoshiyasu doi)

生年月日 昭和52年 7月25日 生まれ 三人男兄弟の三男甘えん坊
出身地 羽島郡笠松町
スポーツ 小学4年から大学まで 柔道をはじめ日本一を目指し奮闘 柔道弐段 県大会準優勝
趣味 読書・お参り・治療機器の開発・治療法の開発
好きな食べ物 焼き芋 コーヒー (タバコ・お酒は飲みません)
好きな本 言志四録(中村天風)
好きな言葉 一隅を照らす
資格 柔道整復師 介護支援専門員 福祉住環境コーディネーター ジャパンカイロ上級インストラクター アスレティックトレーナー SSR神経最適化療法 DSR自律神経療法 気圧療法専門員

現在、土井接骨院を開院し9年目、医療現場23年目を迎える。

簡単ですが以上です。笑終了と言いたいですが、ここから幼少期から現在治療家を目指すまでを簡単にお話しさせて頂きたいと思います。


笠松の小さな床屋の三男として生まれ、小さな時から色々な体験をしてきました。
例えば小学2年から中学2年まで父と一緒に美濃にログハウスを建てました。
ログハウスと言ってもほんとサバイバルでお金をかけずにいかに良いものを作るのかが良いみたいな感じで、山に生えている木を地主さんから買って伐採し乾かし、皮をめくり、加工し、運び組み立てるみたいな感じで、軽トラックに乗りながら6年がかりで完成させました。

ドラム缶風呂に入りながら~ほんと北の国みたいな感じでした。そこで自然と共に色々体験した覚えがあります。川でアユをとったり、釣りをしたり、チェーンソーで木を切ったり、カンナ掛けをしたりなどなどしました。父は床屋なのに、どんなものでも電化製品が壊れても直してしまったり、木彫りでプロ級に何でも作ったり、棚を作ったり、書道がうまかったり、ピザを作ったりと何でもあきらめずに独学勉強してやってしまうすごい父ですね。我が家ではスーパーG(スパーじーちゃん)と呼ばれています。笑。よくわずかなこづかいの中でログハウスを建ててしまうコストパフォーマンスに脱帽です。YD骨格矯正チェアーの試作機を製作してくれたのも父でした。どこの医療機器メーカーも半年以上かかりながら製作するのを、ほぼ徹夜一ヶ月で完成形の試作モデルまで製作してくれました。そのお陰で今のYD矯正機器の完成形があります。


言うならばYDテクニックの土台となる機器を製作してくれた生みの親ですね。
そんな父の元で生活しながら床屋のお客さんと上手にコミュニケーションをとりながら仕事する後姿を見ながら育ちました。
その時に柔道に専念し、初めて大きな県大会の決勝で寝技の締めに合い、参ったをしたくなくて我慢しいてたらいつのまに初めて「落ちて」(通称落ちるとは気絶する)初めて大きな試合に見に来てくれた父の前で落ちた瞬間、父のビデオカメラ越しに「よ~し~や~すぅ~」とビデオ画面が震えながら心配しているのが今では笑い話です。落ちている瞬間お花畑が本当に見えました。気が付いたら試合が終わっていました。
泡吹いて気絶する息子を見てビックリしたんでしょうね。

また我が家では小さい時から仏縁に触れる機会が多く、よく家族であちこちのお寺や神社にお参りに行きました。
知多88ヶ所お遍路、小豆島88ヶ所お遍路、福岡笹栗88ヶ所お遍路、本四国番外20ヶ寺、谷汲観音50回参り、などなどこの他にあげたらきりがないくらい一緒に参拝に行っています。
色々お参りに行く機会が多く、そこで宿坊というお寺で泊まるのがお遍路中には多く、朝7時からお参りがありその後、住職さんのお話を聞くのですが、またこの話が面白く、時には地獄の話や、生きるという事の話など、楽しい話を聞くのが楽しみで巡礼した覚えがあります。
最後、本四国88ヶ所お遍路だけはまだご縁が無かったのでしたので、家族で5年間かけやっと昨年、88ヶ所満願しました。
息子と娘が参拝した後に、お寺の住職さんに朱印をしてもらうのですが、スタートした時は上の子は小学生下の子は保育園でしたので朱印帳の方が大きくて2人の朱印係の役目を見ながら、成長を感じました。


昔よく記憶があるのは、家は床屋でしたので、毎月第三日曜日の休みになると、どこかの孤児院にヤクルトを持ってボランティアの散髪に行っていたのを覚えています。
ベビーカーに入られながら父母の後姿を見ながら、10年間行く度に、自分には父母がいるけど、この小さな子たちには親がいないと思うと本当に親が傍に居てくれて良かったなと思いながら、この子たちは親がいないと思うと胸が痛くなったのを覚えています。
常に当たり前ではないんだなと感じながら生活した覚えがあります。
常に、ご先祖様を大切に神仏を敬い、父母の恩を忘れず生かされて生きていく事の大切さを学んだ幼少期時代でした。

では学生時代のお話と続きます。皆様お付き合い頂きありがとうございま~す。ではいきます。


小学校~中学~高校と勉学は人一倍時間をかけてやってきましたが、どんだけ頑張っても頭が悪く、いつも悔しい思いをしていました。
本当にここで言うのは恥ずかしいですが、点数はめちゃくちゃ悪かったです。ですが、なぜかクラスのみんなからの推薦で毎年学級委員や生徒会長、応援団長を長くしてきた覚えがあります。
できが悪いので遅くまで残り、全校集会での発表文章を先生に添削を何度もされながら、なんで僕は頭が良くないのにこうなるのかな~と。
もっと頭のいい子沢山いるのにと思っていました。
やることはしっかりやるが点数とれない君でした。笑
これは世に言う伝説の生徒会長です。(伝説とはバカが会長をしていた)

その頃、学生時代に中学2年の時、よく小さい時から、柔道でケガをしては近くの接骨院に行っていました。その中で、治療をされる先生の姿を見て、いつしか僕も、みんなに喜んでもらえる仕事に魅力を感じ、その時、将来接骨院の先生になると決心しました。その気持ちは中学2年から揺らぐことなく、高校を卒業し米田柔整専門学校に入り、とんでもなく多い勉強に3回ほど本気で辞めたくなったのを覚えています。当時、学校は東海で一校、あとは福岡、東京など本当に少なく、全校で米田がこの業界では、東京大学のような位置で、入るのはできるが出るのは超大変、と言う所でした。国家試験を受ける前に学校内の単位や技術試験などここをクリアしないと国家試験も受けさせてくれない超厳しい学校でした。

髪型は全員角刈りくらいの単髪・黒髪指定、制服は規定のブラザーと厳しく、しかも勉強が17教科で年間期末、中間テストで各テストで4つの教科で赤点をとると留年という厳しい環境で、遅刻は8回まで休みは3回で留年という、3年間ですが一年を無事に上がるさえ、大変でした。ご存知の通り我が家は床屋ですので、またまた入学金や学費などバカ高く、親には苦労かけました。
二代目やボンボンの学生は昼間に行く昼間部、脱サラや苦労人は夜間部となっており、当然私は夜間部でした。

留年したら即諦める。という環境で、必死でついていきました。学費が払えないからです。


夜間部でしたので、昼間は朝から接骨院で研修しバイトしながら、学校が10時に終わり帰った後はサークルKのバイトを3時までやり、朝は8時半には接骨院で仕事し、3時から笠松駅から電車で名古屋まで揺られ学校に行くの毎日でした。その中で、車は中古の安い軽自動車で移動中、ガス欠になりガソリンスタンドに寄り財布には300円しかなく、おじさんに3リッターと言って超恥ずかしい思いをした事を昨日のように覚えています。悔しかったです。高校の同級生は就職していい車に乗り、給料ももらい、羽振りいい生活を楽しんでいました。
一緒に外食した時はいつも切ない気持ちでした。安いやつや~ん。これ安いやつ~ん。しか注文できなくてね。

 

 

ですので、最近はレギュラー満タンというとしあわせだな~。となります。笑ドヤッみたいな。
2年生の後半に本気で接骨院を諦めて床屋になろうとしたことがあります。テスト前、仕事はしなあかん、勉強はしなあかんで一回勉強中痙攣しておかしくなったのを覚えています。笑
それで、母親に相談しました。「俺辞めるわ」「そうか、そうならそうしたらいいんじゃない」と、あ~やっと楽になれると思い、スーパーGこと父に話したら、今まで一回も怒鳴った事がない優しい父が「一度乗った船は最後まで降りるな。降りてから床屋になるか考えたらいい」と物凄い剣幕で言われた時に、そうか~もう一度諦めないで最後までとりあえずやり切ろうと決心し、今にあります。もちろん、資格を取ってからは、床屋になろうとは思いませんでした。あの時、母と同じように言われていたら、私はバーバーコスモになっていたと思います。(コスモは笠松でまだ現在営業中の実家の床屋の名前です)コスモ=宇宙ですから壮大な名前ですね。今気が付きました。笑
そんなこんなで、なんとかしがみつき、学校を卒業し、国家試験を受け合格し晴れて、柔道整復師の資格をもらいました。

最後、修行時代のお話です。


私は、開業までの13年間は、接骨院、整形、神経内科と色々な現場で治療やリハビリを担当してきました。
接骨院では、想像していたのとは違い、毎日「白衣を着た肉体労働者」のごとく、ベッドからベッドへ一日中、マッサージをしていました。
一言で言うとマッサージ屋さんですね。電気をかけ、痛みを治すのではなく、和らげるのが主流となっているため15分のマッサージをひたすら行う事が治療と思い、現場で立っていました。もちろんその時に、テーピングや骨折の固定や整復、外傷の処置を勉強してとてもためになりました。
しかし、根底には、ほとんど来院される方は、慢性的な痛みです。その慢性疾患を外傷扱いして保険申請する事に疑問を感じていました。
もっとクリーンな治療現場でと思い、他の所も考えましたが、ほとんどが同じような内容でした。
外傷は外傷として正規に保険申請する。慢性疾患は保険外診療として自費診療とはっきり区別分けをすることが大切ではないかと現場でいつも感じていました。
現在、私の接骨院では開業からこの区別分けをしっかり行い、治療してきました。
それ以上に、現場では治す事をより、慰安や症状を和らげる事がメインで完治や根本改善は考えて診療はされていないことに不思議でたまらなく、もし自分が患者さんだったら治しに来ているのに治してもらえないなら行く意味がないことを思いました。
現場の医療業界を知った時期でした。整形も同様、投薬治療がメインでリハビリもおなじみの電気、牽引、マッサージの流れ作業にやはりちがうなと感じていました。また神経内科では、同じく投薬治療、ステロイド注射等の治療現場でこれもまたちがうなと感じました。リハビリでは、寝たきりの入院患者さんの関節の拘縮予防のリハビリをしながら、人生とは・・・。生きるとは・・・。健康とは・・・。死ぬとは・・・。話すこともできない。動くともできない。動きたくても拘束され動けれない。食事が取れなくなると胃に穴を開け、胃ろうされごはんはドロドロの栄養剤を胃の中に流される。トイレはいけないからベッドで排便をし、おむつ交換をしてもらう。そんな、毎日の中で、人が亡くなり。また入院患者さんが来る。この繰り返しの現場を見てきて。人生とは・・・。生きるとは・・・。帰ると暗~い気持ちで過ごしていたのを覚えています。その患者さんの中でMさんという60代の男性患者さんがとても思い出です。首から下が動かず、話せない、使えるのは目の動きと口で物をくわえるのみ。コミュニケーションはほとんど不可能。このMさんに口でスプーンをはさみ、文字版を目で刺した方向に文字盤を合わせ。合っていたらうなずく、と言う会話で、一日一句を頭のリハビリとして始めました。その一句の内容は、人生の後悔と家族への後悔、そして今の感謝。の内容ばかりでした。涙が出ました。涙がでました。リハビリを終わり階段を下るときに。
そのまとめた内容を家族にお渡ししました。
とても喜んでみえました。
そのリハビリがいく時か続き、とうとうお別れの時がきました。
私は、最後にMさんのお陰で大切なものを沢山いただきました。ありがとうと。
そしたらMさんは、「先生と出会えて幸せでした。」と涙が止まらなかったです。
後からご家族から聞いたお話ですと先生が来てからは明るくなって色々お話ができたそうです。極道の方でご家族も苦労をされて見えたみたいです。
色々な人生から私は、色々体験する事ができました。
この修行時代にしわせだなぁ~という言葉の大切さと意味の深さを知りました。
日々の当たり前がしあわせの連続である事を気づかされました。
朝目が覚める。話せる。動ける。食べれる。見れる。聞こえる。してあげたいようにしてあげれる。こんな幸せなことはありません。

 

 

その修行時代にあらゆる資格を勉強して取得し、あらゆる治療技術を学び、指導を受け、文献を2千冊以上独学で学び、人が生きるとは健康になるには。病気にならないようにするには。現状の医療の問題点は。効果のある手技は。治療機器は。等々この13年間は模索し知識を広げる時代でした。

やっと現場で治療しながらつかめたのが人は誰しも痛みをとる機能は備わっている。という事でした。痛みを作るのも治るのもその人次第。その機能が脳幹にあるのを突き止めました。
じゃ~どうすればその脳幹の機能を正常化できるのか?
ここから長い研究開発が続き膨大な開発費用を投じ、何度も試作を繰り返しながら今のYDテクニック、YD骨格矯正が生まれました。お陰様でYDテクニックで使用するYD機器は特許を取得し、医療認証を取得しました。
このYD骨格矯正が生まれたのは、私自身の力ではありません。
今まで関与した出来事、父母、家族、恩師のお陰様です。
その患者さんの痛みに寄り添い共に克服し完治したい。その気持ちが形となりました。
我が家では大切にしている言葉があります。「思うままに惜しみなく、自己を捧げて他人の為につくせ」という言葉です。
自分の持っているものを分け与えれる心、自分の体を使ってあげられる心、相手の心に寄り添い楽にしてあげられる心、自分の財を分け与えれる心、その心の動きに後悔や自分だけという心を考えず、思うままに惜しむことなく喜びながらさせていただける人でありたいと思います。

長くお付き合いいただきありがとうございました。お恥ずかしいばかりの内容で申し訳ないです。話しべたですので分からないところはご了承くださいませ。
では、スタッフ一同接骨院で皆様を心よりお待ちしております。

おわり。
せ~の
「しあわせだなぁ~。」

治療家 土井 快泰

当院へのアクセス情報

所在地〒501-6251岐阜県羽島市福寿町間島3丁目114-1
電話番号058-393-2728
駐車場28台あり
休診日火曜午前
木曜・日曜・祝祭日