お話しするのは初めてですね。
私個人の話をするのはお恥ずかしいですが、私の人となりを知って頂けたらと思います。
まず簡単に自己紹介します。
生年月日 昭和52年 7月25日 生まれ 三人男兄弟の三男甘えん坊
出身地 羽島郡笠松町
スポーツ 小学4年から大学まで 柔道をはじめ日本一を目指し奮闘 柔道弐段 県大会準優勝
趣味 読書・お参り・治療機器の開発・治療法の開発
好きな食べ物 焼き芋 コーヒー (タバコ・お酒は飲みません)
好きな本 言志四録(佐藤一斎)
好きな言葉 一隅を照らす
資格 柔道整復師 介護支援専門員 福祉住環境コーディネーター ジャパンカイロ上級インストラクター アスレティックトレーナー SSR神経最適化療法 DSR自律神経療法 気圧療法専門員 PNS療法マスターコース卒 塩川ガンステッドカイロプラクティックコース卒
現在、土井接骨院を開院し10年目、医療現場24年目を迎える。
簡単ですが以上です。笑終了と言いたいですが、ここから幼少期から現在治療家を目指すまでを簡単にお話しさせて頂きたいと思います。
ドラム缶風呂に入りながら~ほんと北の国みたいな感じでした。そこで自然と共に色々体験した覚えがあります。川でアユをとったり、釣りをしたり、チェーンソーで木を切ったり、カンナ掛けをしたりなどなどしました。父は床屋なのに、どんなものでも電化製品が壊れても直してしまったり、木彫りでプロ級に何でも作ったり、棚を作ったり、書道がうまかったり、ピザを作ったりと何でもあきらめずに独学勉強してやってしまうすごい父ですね。我が家ではスーパーG(スパーじーちゃん)と呼ばれています。笑。よくわずかなこづかいの中でログハウスを建ててしまうコストパフォーマンスに脱帽です。YD骨格矯正チェアーの試作機を製作してくれたのも父でした。どこの医療機器メーカーも半年以上かかりながら製作するのを、ほぼ徹夜一ヶ月で完成形の試作モデルまで製作してくれました。そのお陰で今のYD矯正機器の完成形があります。
また我が家では小さい時から仏縁に触れる機会が多く、よく家族であちこちのお寺や神社にお参りに行きました。
知多88ヶ所お遍路、小豆島88ヶ所お遍路、福岡笹栗88ヶ所お遍路、本四国番外20ヶ寺、谷汲観音50回参り、などなどこの他にあげたらきりがないくらい一緒に参拝に行っています。
色々お参りに行く機会が多く、そこで宿坊というお寺で泊まるのがお遍路中には多く、朝7時からお参りがありその後、住職さんのお話を聞くのですが、またこの話が面白く、時には地獄の話や、生きるという事の話など、楽しい話を聞くのが楽しみで巡礼した覚えがあります。
最後、本四国88ヶ所お遍路だけはまだご縁が無かったのでしたので、家族で5年間かけやっと昨年、88ヶ所満願しました。
息子と娘が参拝した後に、お寺の住職さんに朱印をしてもらうのですが、スタートした時は上の子は小学生下の子は保育園でしたので朱印帳の方が大きくて2人の朱印係の役目を見ながら、成長を感じました。
その頃、学生時代に中学2年の時、よく小さい時から、柔道でケガをしては近くの接骨院に行っていました。その中で、治療をされる先生の姿を見て、いつしか僕も、みんなに喜んでもらえる仕事に魅力を感じ、その時、将来接骨院の先生になると決心しました。その気持ちは中学2年から揺らぐことなく、高校を卒業し米田柔整専門学校に入り、とんでもなく多い勉強に3回ほど本気で辞めたくなったのを覚えています。当時、学校は東海で一校、あとは福岡、東京など本当に少なく、全校で米田がこの業界では、東京大学のような位置で、入るのはできるが出るのは超大変、と言う所でした。国家試験を受ける前に学校内の単位や技術試験などここをクリアしないと国家試験も受けさせてくれない超厳しい学校でした。
髪型は全員角刈りくらいの単髪・黒髪指定、制服は規定のブラザーと厳しく、しかも勉強が17教科で年間期末、中間テストで各テストで4つの教科で赤点をとると留年という厳しい環境で、遅刻は8回まで休みは3回で留年という、3年間ですが一年を無事に上がるさえ、大変でした。ご存知の通り我が家は床屋ですので、またまた入学金や学費などバカ高く、親には苦労かけました。
二代目やボンボンの学生は昼間に行く昼間部、脱サラや苦労人は夜間部となっており、当然私は夜間部でした。
留年したら即諦める。という環境で、必死でついていきました。学費が払えないからです。
ですので、最近はレギュラー満タンというとしあわせだな~。となります。笑ドヤッみたいな。
2年生の後半に本気で接骨院を諦めて床屋になろうとしたことがあります。テスト前、仕事はしなあかん、勉強はしなあかんで一回勉強中痙攣しておかしくなったのを覚えています。笑
それで、母親に相談しました。「俺辞めるわ」「そうか、そうならそうしたらいいんじゃない」と、あ~やっと楽になれると思い、スーパーGこと父に話したら、今まで一回も怒鳴った事がない優しい父が「一度乗った船は最後まで降りるな。降りてから床屋になるか考えたらいい」と物凄い剣幕で言われた時に、そうか~もう一度諦めないで最後までとりあえずやり切ろうと決心し、今にあります。もちろん、資格を取ってからは、床屋になろうとは思いませんでした。あの時、母と同じように言われていたら、私はバーバーコスモになっていたと思います。(コスモは笠松でまだ現在営業中の実家の床屋の名前です)コスモ=宇宙ですから壮大な名前ですね。今気が付きました。笑
そんなこんなで、なんとかしがみつき、学校を卒業し、国家試験を受け合格し晴れて、柔道整復師の資格をもらいました。
その修行時代にあらゆる資格を勉強して取得し、あらゆる治療技術を学び、指導を受け、文献を2千冊以上独学で学び、人が生きるとは健康になるには。病気にならないようにするには。現状の医療の問題点は。効果のある手技は。治療機器は。等々この13年間は模索し知識を広げる時代でした。
やっと現場で治療しながらつかめたのが人は誰しも痛みをとる機能は備わっている。という事でした。痛みを作るのも治るのもその人次第。その機能が脳幹にあるのを突き止めました。
じゃ~どうすればその脳幹の機能を正常化できるのか?
ここから長い研究開発が続き膨大な開発費用を投じ、何度も試作を繰り返しながら今のYDテクニック、YD骨格矯正が生まれました。お陰様でYDテクニックで使用するYD機器は特許を取得し、医療認証を取得しました。
このYD骨格矯正が生まれたのは、私自身の力ではありません。
今まで関与した出来事、父母、家族、恩師のお陰様です。
その患者さんの痛みに寄り添い共に克服し完治したい。その気持ちが形となりました。
我が家では大切にしている言葉があります。「思うままに惜しみなく、自己を捧げて他人の為につくせ」という言葉です。
自分の持っているものを分け与えれる心、自分の体を使ってあげられる心、相手の心に寄り添い楽にしてあげられる心、自分の財を分け与えれる心、その心の動きに後悔や自分だけという心を考えず、思うままに惜しむことなく喜びながらさせていただける人でありたいと思います。
長くお付き合いいただきありがとうございました。お恥ずかしいばかりの内容で申し訳ないです。話しべたですので分からないところはご了承くださいませ。
では、スタッフ一同接骨院で皆様を心よりお待ちしております。
おわり。
せ~の
「しあわせだなぁ~。」
治療家 土井 快泰